アンコールワット見物(本編その3)

メガネをかけているだけで処刑された狂気の3年9ケ月とアンコールワットの悪夢

キリングフィールド

ポル・ポト率いるクメールルージュ(赤色のクメール)が、1975年4月に首都プノンペン占領後、1979年1月に隣国ベトナムとの戦いに敗れプノンペンから去るまでのわずか3年9ケ月の間に、自国民を大量虐殺し、また原始共産制という非現実的な政策によって飢饉を招いた結果、なんとアメリカ国務省によると120万人、アムネスティは140万人、イエール大学では170万人が犠牲になったと推定されています。





ポル・ポト派は、極端(狂信的)な毛沢東思想で専門知識、工業、貨幣制度を否定し、原始共産制社会を理想とする重農政策を強行する中で、知識人、医者、教師、旧政権関係者、富裕層、職人、専門家、外国語を話せる人、ベトナム系住民を徹底的に処刑しました。

挙句の果ては、メガネをかけているだけで知識人とみなし、その一族もろとも殺していったそうです。



カンボジア全土に100ケ所以上の処刑場(通称キリングフィールド)がありますが、今回、我々はアンコールワット近くのキリングフィールドを訪ねました。そこには、ガラス張りの棚に頭がい骨が何段も重なり異様な光景そのものです。

現在は、その地はお寺になっていて供養されています。合掌。

1984年公開のイギリス映画「THE KILLING FIELD」(アカデミー賞3部門受賞)は、その当時の実話を基にしています。すさまじい狂気のなかでも、主人公の生き抜こうとする強い意志が感動ものです。観ることをお勧めします。

映画「THE KILLING FIELD」








今回、アンコールワットに行ったのがキッカケで、初めてこの映画をビデオで観ました。この映画は前からずっと心に引っかかっていました。

映画が公開された当時(1984年)、私は新入社員で独身寮に入っていました。
日曜日の夕方、いつものようにダラダラとビールを飲んでいたら、1年上の先輩が、私の部屋に入ってきて、「今日は有楽町行って映画を観たが、すごい映画だった。君も観た方がいいよ。」と言っていたのがこの映画です。
あれから三十数年も経ったのかと思うと時間はアッという間ですね。(ガッカリ)

おもしろいことに、その先輩は土木エンジニアとして、香港、シンガポール、バンコク、ロンドン、インドで地下鉄工事を長年経験し、やっぱり何か縁があるのでしょうか、最近カンボジアに赴任し、内戦で壊れた鉄道の復旧工事に携わっています。(笑)

なぜ、ポル・ポト派率いるクメールルージュが台頭したのか?

これは大国に翻弄された悲劇と言っていいかもしれません。

9世紀から栄華を誇ったアンコール王朝は、1431年隣国アユタヤ王朝(タイ)の侵攻でアンコールが陥落しました。その後もタイやベトナムの侵略や干渉が続き、領土が失われていきました。(現在のカンボジア領土はアンコール王朝最盛期の三分の1以下)

ベトナムのホーチミン市は元々クメール人(カンボジア人)が住んでいましたので、ベトナム南部にクメール人(カンボジア人)集落があるのは当たり前ですね。

アンコール王朝(最盛期)の版図

1863年にフランスの支配下に入り、1887年にはフランス領インドシナに編入され植民地となりました。


フランス領インドシナ

第二次世界大戦で、日本軍がフランス軍を駆逐し、カンボジア王家のシアヌーク国王は独立を宣言しました。その後、1953年に完全に独立を達成しました。

独立の父と言われたシアヌークですが、1970年、大国アメリカの支持を得たロン・ノル首相のクーデターによって国外追放されました。
当時ソ連が支援する共産主義の北ベトナムとアメリカが支援する資本主義の南ベトナムが戦争をしていました。


シアヌーク国王(1922-2012)

シアヌークは、北ベトナムが南ベトナムに人員や物資を送るためにカンボジア国内を通る通称ホーチミンルートの存在を許し、親共産主義的とみなされていました。また、アメリカ軍がそのルートを断つためカンボジア国内を爆撃し、多数の民間人死者が出たことを公に非難もしていました。アメリカにとって邪魔な存在だったのでしょう。


ロン・ノル首相のクーデターから間もなく、北ベトナム軍がカンボジア東部へ侵攻し、瞬く間にカンボジア国軍を駆逐しプノンペンに迫りました。そこで、アメリカ軍と南ベトナム軍は北ベトナム軍追撃のためカンボジア国内に侵攻し激しい戦闘がありました。
一方、クメールルージュはカンボジア南部や南西部に開放区つくり、勢力を伸長し、国軍との間で内戦が始まりました。

アメリカ軍による空爆や内戦で、数十万人の農民が犠牲になり、100万人以上が国内難民となったと言われています。
なんとビックリ、アメリカ軍が投下した爆弾の量は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が日本本土に投下した量の3倍とのこと。


さまざまな戦略上の理由があったにしても、人命を犠牲にして、爆弾製造会社は間違いなく儲かったことでしょう。








東京大空襲





そういえば、アメリカの南北戦争(1861-1865)が予想よりも早く終わったので、余った武器を長崎のグラバー商会を経由して、戊辰戦争(1868-1869)で使った(処分)という人がいます。(?)

薩長が江戸城開城後も執拗に東北地方に攻めてきたのは、武器の消費が目的かな?

そうであれば、会津藩はえらい迷惑ですね。


1971年からの米中和解後、アメリカのカンボジア国軍への軍事支援は中止され、ロン・ノル政権は見捨てられていく一方、親中派のクメールルージュは勢力を増していきました。



中国は毛沢東主義のポル・ポトを応援するため、追放されているが、農民に慕われているシアヌークを説得してポル・ポトと手を結ばさせました。(但し、シアヌークはカンボジア帰国後しばらくして幽閉された)


中国の100元紙幣(毛沢東肖像画)

ちょうど、アメリカが南ベトナムを見捨てインドシナ半島から撤退したこともあり、ポル・ポト派(クメールルージュ)は中国からの武器援助を受け、カンボジア国内を制圧しました。

ポル・ポトによる原始共産制

これが3年9ケ月に及ぶ悲劇の始まりです。知識人等は全て処刑。親ベトナム派や反乱の可能性を疑われたクメールルージュ内の同志たちも殺され、さらには革命が成功したことを知り、国の発展のために海外から帰国した留学生や資本家も処刑。小さな子供たちは、親から引き離して集団生活をさせ、洗脳し、農村での労働や軍事訓練をさせました。

内戦や空爆、そして社会の大混乱で、農業インフラが徹底的に破壊され、元々食料輸出国だったのが食料危機になり、大勢が餓死しました。


この悲惨な状況は「THE KILLING FIELD」を観ればだいたい分かると思います。

滑稽なのは、当時この大量虐殺という暴挙が国際社会で問題にならなかった理由です。
それは反ベトナムで結束するアメリカをはじめとする西側諸国が、ベトナムと敵対するクメールルージュの国連でのカンボジア代表権を支持・承認したからです。
もう、こうなると、何がなんだかよくわからなくなってきます。


なぜ、人はこんなに残酷になれるのでしょうか?
人間誰しもオギャーと生まれたときはどんな極悪人も純真無垢ですが、どこでどのように狂っていくのでしょうか?(苦笑)



アンコールワットの悪夢

ポル・ポト派はベトナム軍によってプノンペンを追われてからアンコールワットに落ち延びました。アンコールワットは宗教施設ですが、周囲を堀と城壁に囲まれ中央に楼閣があり周りを見渡せます。なによりも文化遺産なので、攻める方にとっても破壊するわけにはいかないジレンマがあります。


アンコールワット(外周は幅190mの堀)

これが、遺跡には災いしました。ポル・ポト派
は、宗教を否定する共産主義なので、遺跡、仏像を破壊しました。

ポル・ポト派は、しばらくはタイ政府黙認で、木材やルビーの密貿易で資金を稼いで一定の勢力を保っていたそうですが、党派争いなどで徐々に衰え、最後、ポル・ポト自身は同志に監禁され1998年に死去し、クメールルージュも投降しました。

現在、アンコールワットは各国が協力して修復を行い、地雷の撤去も終わり、世界中から観光客が来ています。




アンコールワット見物(本編その4)に続く



モリンガ飲んで今日も元気!
今日一日、明るく、朗らかに、活き活きと、勇ましく!




(参考) アセアン諸国の人口と一人当たりGDP










コメント

このブログの人気の投稿

世界の奇跡 玉川温泉

アンコールワット見物(本編その1)