アンコールワット見物(本編その2)

精緻な驚くべき高度な土木技術によって繁栄したアンコール王朝とインドシナ半島の民族大移動


タ・プローム遺跡

アンコールワットは、ヒンズー教寺院が後に仏教寺院になり、世界三大仏教遺跡と言われていますが、これとは逆に、タ・プローム寺院は仏教寺院からヒンズー教寺院に改修されました。

樹木に侵食されているタ・プローム寺院

タ・プローム寺院は、初めは前編で紹介しましたアンコールトム(城壁都市)をつくったジャヤーヴェルマン7世(12世紀末アンコール王朝最盛期の王で熱心な仏教徒)が、母を弔うために建てた仏教寺院でした。

その後、仏像のレリーフが削り取られたものが見つかるなど、後にヒンズー教に改宗したと考えられています。

宗教間の勢力争いがあったのでしょう。

タ・プロームとは「梵天の古老」の意味。

古老はおじいさん、おばあさんだと思います(笑)が、梵天とは何か?を「デジタル大辞泉」で調べると、
「古代インドで世界の創造主、宇宙の根源とされたブラフマンを神格化したもの。仏教に取り入られて仏法護持の神となった。色界の初禅天の王。十二天・八方天の一。ふつう本尊の左に侍立する形で表され、右の帝釈天と相対する。梵天王。大梵天王。」

読むと?????。
帝釈天でフーテンの寅さんと草だんごを連想するくらいかな。(笑)






ヒンズー教では、仏教開祖のお釈迦様もヒンズーの神の化身の一人と考えられています。ヒンズー教の多様性によって大乗仏教の教義が取り入れられたことによるそうです。

釈迦立像

そういえば、中東で生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教は姉妹宗教と言われ、イスラム教では、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、そして最高にして最後の預言者のマホメットを五大預言者としています。

このように、宗教はいろいろ関係し合っているのに、ややこしい問題が多いようですね。
宇宙真理の解釈の違いのほかに世俗的な利権争いもあるかもしれません。

人はどこから来てどこへ行くのか?何のために生まれ来しや。本来は純粋にこのようなことを考えていたのが、なんでこうなるの?(笑)




タ・プロームは、東西1000m、南北600mのラテライトの壁に囲われた中に建っています。三重の回廊と39の塔が並ぶ巨大な建物ですが、ガジュマルやカポックの木の侵食で独特の景観を醸し出しています。この樹木で侵食された寺院の修復計画もあるそうですが、樹木が寺院を破壊しているのか、それとも支えているのか議論があり、結論は出ていないようです。

カジュマルの木が侵食

結構壊れている

アンコール王朝の繁栄

精緻で優れた建築物をつくる一方で、アンコール王朝は高度な土木技術によって、繁栄を築き上げました。

ナショナルジオグラフィックの説明がわかりやすいので引用します。

『アンコールが王朝が栄えた背景には、巧みに設計された水路と貯水池からなる治水灌漑システムの存在があった。そのおかげで、乾季には貴重な雨水を蓄え、雨季には余分な水を分散することができた。

アンコールのなかでも特に神聖とされる聖地がクレーン丘陵(アンコール遺跡群のある平野はクレーン丘陵からの大扇状地)にある。モンスーンの季節、クレーン丘陵から流れ出る大量の水を制御し、利用することで、アンコールとその支配者たちは繁栄を遂げた。9世紀初期に王朝の基礎を築いたジャヤーヴェルマン2世の時代からずっと、王国の発展は豊かなコメの収穫に支えられてきた。ただそれには、大規模な水利灌漑設備が欠かせなかった。

アンコールの地形は、北のクレーン丘陵と南のトンレサップ湖にはさまれた緩やかな扇状地

たとえば、アンコール王朝が造った3番目の貯水池、西バライだ。最も高度な技術を駆使して造営され、その大きさは実に、東西8キロ、南北2.5キロもある。幅90メートル、3階建ての高さに相当する堤防を築くに要した土砂は1200万立方メートルだ。

西バライ貯水池
今からおよそ1000年前にこれほど大掛かりな土木工事を行うには、20万人もの労働力が必要だったと考えられている。こうして完成した巨大な貯水池は、現在でもシェムリアップ川の水流を迂回させ、灌漑の役割を果たしているのだ。

距離にして延べ数百キロにもなる水路や堤防が、何世紀にもわたって建設された。しかも、プオック川、ロリュオス川、シェムリアップ川からの水を貯水池に引くのに、地形の微妙な傾斜が巧みに利用されていた。夏のモンスーン期にあふれた水を逃がす越流水路も整備され、乾季が始まる10~11月には、貯水池から灌漑用の水路を経由して水が供給されるようになっていた。「驚くほど考え抜かれたシステム」となっている。

優れた治水システムが、アンコール王朝を「並みの国」から「大国」に押し上げたのだろう。雨が少ない年に最低限の食料を住民たちに配ることもできたはずだ。水流を変え、貯水する技術が高ければ、洪水の被害も防げる。東南アジアのほかの王国が水不足や洪水に苦しんだ時代にあって、アンコールの先進的な水利設備は、計り知れぬ戦略的な大道具だっただろう。』 以上です。


治水や灌漑の始まりは、自然をある程度コントロールし集約的な農耕ができるようになったことから、文明の始まりと言っていいのでしょう。
そして治水(利水)こそが、時の権力者の大きな課題です。

日本でも昔から至る所で治水工事をしてきています。また中国でも、中国の歴史は治水の歴史といわれるほど、治水にどれほどエネルギーを注いだかわかりません。

北京と杭州2500kmの京杭大運河(610年完成)

でも、人智を超えた自然の猛威の前にはイチコロです。
大洪水、大干ばつによって中国では王朝が代わってきました。自然の大災害によって、飢饉や疫病が蔓延し、多くの死者が出、また流民となり、社会が不安定になる。そのようななかから軍閥が現れたり、はたまた、その混乱に乗じて異民族も侵入する歴史です。
治水は要ですね。


アンコール王朝の衰退と滅亡

いろんな説があります。


アンコールトムやタ・プロームを建立したジャヤーヴェルマン7世が死去してからの激しい後継者争い、今の中国雲南省から南下してきたタイ族がつくったスコタイ王国などが周辺領土を蚕食、1283年にモンゴル帝国の侵攻、宗教をめぐる政争、寺院建築で莫大な国費の費消、海洋交易の発達(アンコール王朝は内陸に位置する)等々。

最近の研究からは、アンコール王朝は最も貴重な資源である雨水を管理したが、そのコントロールを失ったことが衰退につながったという新説がでてきています。

ダムが崩壊したと考えられる痕跡があったり、治水システムが行き詰ったことを示唆する証拠があちこちで見つかってきているようです。
研究者曰く「なぜ治水システムが本来の機能を十分に果たせなくなったのかは謎です。しかし、とにかくそのために農業生産を基盤とする国力は失われ、ちょっとした干ばつにも耐えられなくなっていったのでしょう」
100年か500年に一度の大洪水でダムや水路が破壊されたのかも???

アンコール王朝の滅亡は、14世紀からタイ族のアユタヤ王朝が勃興し、その戦いで国力が疲弊し、とうとう1431年にアユタヤ王朝によって首都アンコール・トムが陥落しました。

アユタヤ遺跡

今のクメール人の国カンボジアは、タイ族、越族(ベトナム人)に領土を蚕食され、アンコール王朝最盛期の三分の1以下の国土面積。


インドシナ半島の民族大移動

ゲルマン民族の大移動のように、インドシナ半島でも民族の大移動がありました。

タイ族(タイ人)は中国の春秋戦国時代の楚の可能性が高いとされ、また越族(ベトナム人)は当然、越と同じ民族です。越族は楚に滅ぼされ南方に逃れましたが、さらに南下する漢族に押されベトナム北部に達しました。

楚(タイ人)も膨張する漢族に追われて南下しました。10世紀頃には中国雲南省、貴州省を中心に分布し、インドシナ半島には7世紀頃から徐々に浸透していったとのこと。(ラオスはタイ族の国)

そして、13世紀になるとモンゴル人が中国につくった元に押し出される形でさらに南下が加速され、最終的に現在のタイとなりました。


B.C.403年~B.C.221年 中国戦国時代

もともとインドシナ半島に住んでいたクメール人、チャム族(マレー・インドネシア系で越族に押され少数民族)、モン族(タイに住んでいたが今では山岳少数民族)はいい迷惑だったのでしょう。

以前、ベトナムのハノイに住んでいた時に、ベトナム人の若い女性が、「今のベトナムは小さい国だが、昔は中国広東省などの中国南部も自分たちの領土だった」と言っていたのを思い出しました。


また、当時ハノイで、よく一緒にビールを飲んでいた同い年の仲の良い韓国人からは「朝鮮は昔は、今の中国の半分くらいの領土を持っていた」と聞いたような記憶があります。
彼に対しては、ずいぶん吹いているな(笑)と思っていましたが、いずれにしても島国の日本人の感覚とずいぶん違いますね。

赤線はアジアハイウェイ

アンコールワット見物(本編その3)につづく



モリンガ飲んで今日も元気!
今日一日、明るく、朗らかに、活き活きと、勇ましく!

コメント

このブログの人気の投稿

世界の奇跡 玉川温泉

アンコールワット見物(本編その3)

アンコールワット見物(本編その1)